【スペシャル対談】

 

AI時代に問われるアートの力
― 身体知と問いが拓く生命力ある組織

【スペシャル対談】

AI時代に問われるアートの力
― 身体知と問いが拓く生命力ある組織

名和 高司 氏(経営学者・京都先端科学大学教授)× 谷澤 邦彦(アーティスト/ホワイトシップ共同創業者)

AIの進化により、「正解」と「スピード」へのプレッシャーが加速するビジネスの現場。効率の追求が限界を迎える今、なぜ「アート」が求められるのか。 「パーパス経営」「エシックス経営」などの著書で知られる経営学者・名和高司氏を迎えし、ホワイトシップ共同創業者であり「EGAKU」の考案者である谷澤邦彦との対話を通して、AI時代にこそ求められる「身体知」の重要性と、自ら「問いを立てる力」を組織に呼び覚ます可能性について紐解いていきます。

AIの進化により、「正解」と「スピード」へのプレッシャーが加速するビジネスの現場。効率の追求が限界を迎える、今、なぜ「アート」が求められるのか。 「パーパス経営」「エシックス経営」などの著書で知られる経営学者・名和高司氏を迎えし、ホワイトシップ共同創業者であり「EGAKU」の考案者である谷澤邦彦との対話を通して、AI時代にこそ求められる「身体知」の重要性と、自ら「問いを立てる力」を組織に呼び覚ます可能性について紐解いていきます。


アーティストにとっての「対話」とは何か
――「孤独な表現」の裏側にある呼吸

 

名和氏: 谷澤さんの活動を拝見していて、非常に興味深いと感じる点があります。それは「対話」というコンセプトです。一般に、アーティストというのは極めて孤独な存在であり、己の内面と向き合って独自の表現を追求する「孤高の士」であるというイメージが強い。しかし、谷澤さんは自身の創作においても、あるいは「EGAKU」という実践においても、他者との対話を極めて重視されていますね。この「アートにおける対話」の意義を、どう捉えておられますか。

谷澤: 私にとって、アートと対話は切り離せないものです。確かに、キャンバスに向かっている時間は一人かもしれません。しかし、その行為の根源を辿れば、それは決して自己完結したものではないのです。 例えば、人類最古のアートの一つである洞窟壁画を思い浮かべてみてください。当時の人々は、単に自分の内面を吐き出すためだけに壁画を描いたわけではないと考えられています。そこには、共同体を結びつける不可欠な知の共有や、目に見える世界を超えた『目に見えないもの』への祈りといった行為が込められていたのだと、私は信じています。つまり、アートは最初から「コミュニティとの対話」であり、「見えない存在との対話」だったのだと思うんです。

名和氏: なるほど。表現というアウトプットの前段階に、既に社会や他者との不可分な関係性が組み込まれているということですね。実は、今私が提唱している「シン日本流経営」においても、まさにその「間(ま)」というか、自他非分離の世界を大切にしています。自分と相手、あるいは自分と社会を切り離すのではなく、溶け合っている状態から何かが生まれる。ビジネスの世界でも、こうした「共感」をベースにした関係性が、日本企業本来の強みになると考えています。

谷澤: それにはとても共感します。私は対話を「呼吸」に例えるのですが、表現(アウトプット)が「吐く」行為だとすれば、対話や観察は「吸う」行為です。他者からの刺激や社会の微細な変化を吸い込み、それを自分の中で咀嚼して吐き出す。この循環が止まってしまえば、表現は生命力を失い、退化してしまいます。

アーティストにとっての「対話」とは何か
――「孤独な表現」の裏側にある呼吸

 

名和氏: 谷澤さんの活動を拝見していて、非常に興味深いと感じる点があります。それは「対話」というコンセプトです。一般に、アーティストというのは極めて孤独な存在であり、己の内面と向き合って独自の表現を追求する「孤高の士」であるというイメージが強い。しかし、谷澤さんは自身の創作においても、あるいは「EGAKU」という実践においても、他者との対話を極めて重視されていますね。この「アートにおける対話」の意義を、どう捉えておられますか。

谷澤: 私にとって、アートと対話は切り離せないものです。確かに、キャンバスに向かっている時間は一人かもしれません。しかし、その行為の根源を辿れば、それは決して自己完結したものではないのです。 例えば、人類最古のアートの一つである洞窟壁画を思い浮かべてみてください。当時の人々は、単に自分の内面を吐き出すためだけに壁画を描いたわけではないと考えられています。そこには、共同体を結びつける不可欠な知の共有や、目に見える世界を超えた『目に見えないもの』への祈りといった行為が込められていたのだと、私は信じています。つまり、アートは最初から「コミュニティとの対話」であり、「見えない存在との対話」だったのだと思うんです。

名和氏: なるほど。表現というアウトプットの前段階に、既に社会や他者との不可分な関係性が組み込まれているということですね。実は、今私が提唱している「シン日本流経営」においても、まさにその「間(ま)」というか、自他非分離の世界を大切にしています。自分と相手、あるいは自分と社会を切り離すのではなく、溶け合っている状態から何かが生まれる。ビジネスの世界でも、こうした「共感」をベースにした関係性が、日本企業本来の強みになると考えています。

谷澤: それにはとても共感します。私は対話を「呼吸」に例えるのですが、表現(アウトプット)が「吐く」行為だとすれば、対話や観察は「吸う」行為です。他者からの刺激や社会の微細な変化を吸い込み、それを自分の中で咀嚼して吐き出す。この循環が止まってしまえば、表現は生命力を失い、退化してしまいます。

「正解のない問い」を共に歩む
――ティーチャブルではない「身体知」の伝承

 

名和氏: 谷澤さんが提唱されている「EGAKU」の現場を拝見すると、いわゆる「絵の描き方」を教える場ではないことがよくわかります。ビジネスの世界では、スキルや知識を効率的に伝達する「ティーチャブル(教えられる)」な仕組みが好まれますが、アートの実践において「教える」という行為をどう定義されていますか。

谷澤: 私はアートを一方的に教えられるものではないと考えています。自分自身の役割についても、講師(ティーチャー)だとは全く思っていません。参加者と共に「正解のない問い」の中に身を置く伴走者です。アートにおいて重要なのは、スキルの習得ではなく「身体的な気づき」です。例えば、筆が紙に触れた瞬間の抵抗感や、色が混ざり合う時の予期せぬ変化。表現のプロセスにおける違和感。これらは言葉で説明され、頭で理解するものではなく、身体を通じて直接的に獲得される「知」なのです。私は参加者に「こう描きなさい」とは言いません。ただ、彼らが自分自身の内面や素材と対話できるよう、そのプロセスをEGAKUという設計で支えるだけです。
 
名和氏: その「身体的な気づき」という言葉、私自身も今回の対談に先立ちEGAKUを体験させていただき、身をもって理解しました。私は「源(origin)」というテーマで描いたのですが、最初は頭で「輪廻転生」や「可能性」といった抽象的な概念をこねくり回していたんです。
 
しかし、いざパステルを手に取り、無心に手を動かし始めると、不思議なことが起きました。幼い頃から憧れていた海の青、そして毎年心の充電のために訪れる今井浜の日の出の風景が、濁流のように溢れ出してきた。さらに描き進めるうちに、当初の予定にはなかった「陸地」が画面の中に現れてきたのです。その瞬間、頭で考えていた「可能性」という言葉が、もっと手触りのある、血の通った実感として自分の中に落ちてきた。あの感覚こそが、谷澤さんの仰る「身体知」の萌芽だったのだと感じています。

実は、私が提唱している「シン日本流経営」の根幹にあるのも、こうしたロジックではないより身体的で内発的なものなんです。これまでの経営は、欧米的な「正解」をいかに効率よく出すかというロジックに偏りすぎていました。しかし、今の時代に求められているのは、私がキャンバスの上で「陸地」を見出したように、自らの内側から湧き上がる「志」を羅針盤にして、正解のない海へと漕ぎ出す力ではないでしょうか。
 
谷澤: それこそが、頭での計算を超えた「身体との対話」が始まった瞬間ですね。
 
名和氏: ええ。三島由紀夫の『豊穣の海』に象徴されるような「死と再生」のイメージが、理屈ではなく、描くという行為を通じて自分の中から立ち上がってきた。自分の「源」についてこれほど深く、生々しく内省したことは、これまでありませんでした。「教えられる」のではなく、自ら「掘り当てる」感覚。これは現代のリーダーシップにおける、答えを提示せずに問いを立てる「コーチング」の本質にも通じます。
 

「正解のない問い」を共に歩む
――ティーチャブルではない
「身体知」の伝承

 

名和氏: 谷澤さんが提唱されている「EGAKU」の現場を拝見すると、いわゆる「絵の描き方」を教える場ではないことがよくわかります。ビジネスの世界では、スキルや知識を効率的に伝達する「ティーチャブル(教えられる)」な仕組みが好まれますが、アートの実践において「教える」という行為をどう定義されていますか。

谷澤: 私はアートを一方的に教えられるものではないと考えています。自分自身の役割についても、講師(ティーチャー)だとは全く思っていません。参加者と共に「正解のない問い」の中に身を置く伴走者です。アートにおいて重要なのは、スキルの習得ではなく「身体的な気づき」です。例えば、筆が紙に触れた瞬間の抵抗感や、色が混ざり合う時の予期せぬ変化。表現のプロセスにおける違和感。これらは言葉で説明され、頭で理解するものではなく、身体を通じて直接的に獲得される「知」なのです。私は参加者に「こう描きなさい」とは言いません。ただ、彼らが自分自身の内面や素材と対話できるよう、そのプロセスをEGAKUという設計で支えるだけです。
 
名和氏: その「身体的な気づき」という言葉、私自身も今回の対談に先立ちEGAKUを体験させていただき、身をもって理解しました。私は「源(origin)」というテーマで描いたのですが、最初は頭で「輪廻転生」や「可能性」といった抽象的な概念をこねくり回していたんです。
 
しかし、いざパステルを手に取り、無心に手を動かし始めると、不思議なことが起きました。幼い頃から憧れていた海の青、そして毎年心の充電のために訪れる今井浜の日の出の風景が、濁流のように溢れ出してきた。さらに描き進めるうちに、当初の予定にはなかった「陸地」が画面の中に現れてきたのです。その瞬間、頭で考えていた「可能性」という言葉が、もっと手触りのある、血の通った実感として自分の中に落ちてきた。あの感覚こそが、谷澤さんの仰る「身体知」の萌芽だったのだと感じています。

実は、私が提唱している「シン日本流経営」の根幹にあるのも、こうしたロジックではないより身体的で内発的なものなんです。これまでの経営は、欧米的な「正解」をいかに効率よく出すかというロジックに偏りすぎていました。しかし、今の時代に求められているのは、私がキャンバスの上で「陸地」を見出したように、自らの内側から湧き上がる「志」を羅針盤にして、正解のない海へと漕ぎ出す力ではないでしょうか。
 
谷澤: それこそが、頭での計算を超えた「身体との対話」が始まった瞬間ですね。
 
名和氏: ええ。三島由紀夫の『豊穣の海』に象徴されるような「死と再生」のイメージが、理屈ではなく、描くという行為を通じて自分の中から立ち上がってきた。自分の「源」についてこれほど深く、生々しく内省したことは、これまでありませんでした。「教えられる」のではなく、自ら「掘り当てる」感覚。これは現代のリーダーシップにおける、答えを提示せずに問いを立てる「コーチング」の本質にも通じます。
 

 

  あなたを成り立たせている源(原点)をテーマに、創作を通して内省を深めていく名和氏

ビジネスにおける「共感」の再定義
――「ズレ」が生み出す新たな価値

 

名和氏: そこで重要になるのが「共感」です。昨今のパーパス経営やウェルビーイングの文脈でも、他者への共感は不可欠な要素とされています。しかし、アートにおける共感とは、単に「相手の気持ちがわかる」といった情緒的な次元に留まらない、より動的なものだと感じます。

谷澤: おっしゃる通りです。よく「自分の意図が100%相手に伝わってほしい」と願う人もいますが、私は、表現におけるコミュニケーションの面白さは「ズレ」にあると考えています。
 
私が描いた一点の青を見て、ある人は「深い悲しみ」を感じ、ある人は「澄み切った希望」を感じる。その解釈の多様性こそがアートの豊かさです。相手に正解を押し付けるのではなく、作品という媒介を通じてお互いの「見え方の違い」を顕在化させる。そのズレを認め合い、そこから新しい対話が始まること。それこそが、私が考える真の共感の姿です。

名和氏: その視点は非常に鋭い。ビジネスにおいても、完璧な合意(コンセンサス)だけを求めていると、組織は同質化し、イノベーションは枯渇します。むしろ、異なる背景を持つ個々人が、一つのビジョンに対して多様な解釈を持ち寄り、その「ズレ」をエネルギーに変えていく。これこそが、アートが経営に示唆する「ダイバーシティ&インクルージョン」の真髄と言えるかもしれません。

ビジネスにおける「共感」の再定義
――「ズレ」が生み出す新たな価値

 

名和氏: そこで重要になるのが「共感」です。昨今のパーパス経営やウェルビーイングの文脈でも、他者への共感は不可欠な要素とされています。しかし、アートにおける共感とは、単に「相手の気持ちがわかる」といった情緒的な次元に留まらない、より動的なものだと感じます。

谷澤: おっしゃる通りです。よく「自分の意図が100%相手に伝わってほしい」と願う人もいますが、私は、表現におけるコミュニケーションの面白さは「ズレ」にあると考えています。
 
私が描いた一点の青を見て、ある人は「深い悲しみ」を感じ、ある人は「澄み切った希望」を感じる。その解釈の多様性こそがアートの豊かさです。相手に正解を押し付けるのではなく、作品という媒介を通じてお互いの「見え方の違い」を顕在化させる。そのズレを認め合い、そこから新しい対話が始まること。それこそが、私が考える真の共感の姿です。

名和氏: その視点は非常に鋭い。ビジネスにおいても、完璧な合意(コンセンサス)だけを求めていると、組織は同質化し、イノベーションは枯渇します。むしろ、異なる背景を持つ個々人が、一つのビジョンに対して多様な解釈を持ち寄り、その「ズレ」をエネルギーに変えていく。これこそが、アートが経営に示唆する「ダイバーシティ&インクルージョン」の真髄と言えるかもしれません。

AI時代だからこそ価値を増す「手触り感のある体験」
――ロジックを超越する「身体知」の聖域

 

名和氏: 今、ビジネス界の最大の関心事はAI(人工知能)との共生です。AIは膨大なデータから最適解を導き出し、時には人間以上の「新結合」を見せることもあります。しかし、先ほどの私の体験で言えば、AIに「私の源について描け」と命じれば、それらしい「海」や「日の出」の画像は瞬時に生成されるでしょう。しかし、私が描いている最中に感じた、パステルが紙を削る感触や、予期せぬ「陸地」が現れた時の驚き、そしてそれらが自分の記憶と結びついた瞬間のカタルシスは、AIには決して再現できません。

谷澤: まさに。デジタル化が加速するAI時代だからこそ、私は「言葉にできない、手触り感のある体験」の価値が相対的に高まっていくと考えています。AIはロジックで答えを教えてくれますが、実際に手を動かし、試行錯誤する中で「これは違う」「ここだ」と直感する瞬間の、あのヒリヒリした身体感覚までは教えてくれません。
理屈抜きに没入し、正解のない中で自らの内面を形にしていく。そうした「描く」という身体的なプロセスの積み重ねが、その人の揺るぎない背骨を作っていく。コピーやフェイクが溢れる時代だからこそ、この「代替不可能な体験」が、個人の、あるいは組織の真の原動力になるのだと確信しています。
 
名和氏: 非常に重要な指摘です。これからのAI時代においてさらに重要性を増していくでしょう。効率化の果てに、シン日本流経営が目指すのは「藝(アート)」の復権、つまり人間ならではの価値に戻ることです。
 
今の時代、効率的なアウトプットだけを求めるならAIに任せればいい。しかし、その手前にある「観察」や「試行錯誤」という、一見非効率に見えるプロセスにこそ、人間としての本質的な価値が残るのではないでしょうか。AIに任せられる部分は任せ、人間はより「問いを立てる」ことや「表現する」といった、代替不可能な営みに集中する。それが日本流の進化であると考えています。

AI時代だからこそ価値を増す
「手触り感のある体験」
――ロジックを超越する「身体知」の聖域

 

名和氏: 今、ビジネス界の最大の関心事はAI(人工知能)との共生です。AIは膨大なデータから最適解を導き出し、時には人間以上の「新結合」を見せることもあります。しかし、先ほどの私の体験で言えば、AIに「私の源について描け」と命じれば、それらしい「海」や「日の出」の画像は瞬時に生成されるでしょう。しかし、私が描いている最中に感じた、パステルが紙を削る感触や、予期せぬ「陸地」が現れた時の驚き、そしてそれらが自分の記憶と結びついた瞬間のカタルシスは、AIには決して再現できません。

谷澤: まさに。デジタル化が加速するAI時代だからこそ、私は「言葉にできない、手触り感のある体験」の価値が相対的に高まっていくと考えています。AIはロジックで答えを教えてくれますが、実際に手を動かし、試行錯誤する中で「これは違う」「ここだ」と直感する瞬間の、あのヒリヒリした身体感覚までは教えてくれません。
理屈抜きに没入し、正解のない中で自らの内面を形にしていく。そうした「描く」という身体的なプロセスの積み重ねが、その人の揺るぎない背骨を作っていく。コピーやフェイクが溢れる時代だからこそ、この「代替不可能な体験」が、個人の、あるいは組織の真の原動力になるのだと確信しています。
 
名和氏: 非常に重要な指摘です。これからのAI時代においてさらに重要性を増していくでしょう。効率化の果てに、シン日本流経営が目指すのは「藝(アート)」の復権、つまり人間ならではの価値に戻ることです。
 
今の時代、効率的なアウトプットだけを求めるならAIに任せればいい。しかし、その手前にある「観察」や「試行錯誤」という、一見非効率に見えるプロセスにこそ、人間としての本質的な価値が残るのではないでしょうか。AIに任せられる部分は任せ、人間はより「問いを立てる」ことや「表現する」といった、代替不可能な営みに集中する。それが日本流の進化であると考えています。

対談を終えて

 

名和氏: 今回の対談、そして事前の体験を通じて強く感じたのは、経営における「プロセス」の重要性です。多くの企業が、あらかじめ定義された「正解(アウトプット)」をいかに効率よく出すかを突き詰めています。しかし、私がワークの中で意図せず「陸地」を見出したように、身体的なプロセスから生まれる「予期せぬ発見」こそが、既存のロジックを超え、組織を真に創造的で強靭なものへと進化させる原動力になります。

これこそが、私が提唱している「シン日本流経営」の目指す姿でもあります。 この「ゆらぎ」や「発見」を許容する余白こそが、これからの経営に求められるアートの本質であり、組織を単なる機能体ではなく、自律的に動く「生命体」へと進化させ、「生命力」を吹き込む鍵なのだと感じています。
 
谷澤: まさに、その「余白」を組織の中にどう作っていくかが鍵になりますね。アーティストがキャンバスに向き合うとき、そこにあるのは完成図ではなく、素材や自分自身との終わりのない対話です。一人ひとりが自分の仕事という現場において、自身の内面と対話しながら、失敗やズレを恐れずに「表現」し続ける。名和先生のような経営のプロフェッショナルの方が、
実際に手を動かすことで自身の「源」に触れられたように、誰もが表現者としての実感を持って変容し続ける。これからもアートの実践を通じて多くの方と、これからの経営や生き方を模索していければと思います。
 

対談を終えて

 

名和氏: 今回の対談、そして事前の体験を通じて強く感じたのは、経営における「プロセス」の重要性です。多くの企業が、あらかじめ定義された「正解(アウトプット)」をいかに効率よく出すかを突き詰めています。しかし、私がワークの中で意図せず「陸地」を見出したように、身体的なプロセスから生まれる「予期せぬ発見」こそが、既存のロジックを超え、組織を真に創造的で強靭なものへと進化させる原動力になります。

これこそが、私が提唱している「シン日本流経営」の目指す姿でもあります。 この「ゆらぎ」や「発見」を許容する余白こそが、これからの経営に求められるアートの本質であり、組織を単なる機能体ではなく、自律的に動く「生命体」へと進化させ、「生命力」を吹き込む鍵なのだと感じています。
 
谷澤: まさに、その「余白」を組織の中にどう作っていくかが鍵になりますね。アーティストがキャンバスに向き合うとき、そこにあるのは完成図ではなく、素材や自分自身との終わりのない対話です。一人ひとりが自分の仕事という現場において、自身の内面と対話しながら、失敗やズレを恐れずに「表現」し続ける。名和先生のような経営のプロフェッショナルの方が、実際に手を動かすことで自身の「源」に触れられたように、誰もが表現者としての実感を持って変容し続ける。これからもアートの実践を通じて多くの方と、これからの経営や生き方を模索していければと思います。
 


編集後記

 

今回の対談を通じて、飽くなき論理の追求の先に「志」という人間性の回復を説く名和氏と、表現の本質に向き合うアーティストの谷澤という二人の探究者が、同じ地平を見つめていることに深い感銘を受けました。

象徴的だったのは、名和氏がEGAKUを通じて、当初の思考を超えてキャンバスに「予期せぬ陸地」を見出したエピソードです。AIがあらゆる最適解を提示する時代に、効率化や正解を求める現代のビジネスシーンにおいて、名和氏がキャンバスに見出した「陸地」という予期せぬ発見。そのプロセスに宿る「身体知」こそが、名和氏の提唱する「シン日本流経営」の核心であり、生命力あふれる組織へと進化させる鍵であることを予感させるものでした。
 
既存の枠組みを疑い、自ら「問いを立てる力」を研ぎ澄ませる。その試行錯誤の中にこそ、予測不能な環境下で組織を創造的かつ強靭なものへと変貌させる、真の原動力が潜んでいるのだと感じています。 

(文責:長谷部貴美)

 

編集後記

 

今回の対談を通じて、飽くなき論理の追求の先に「志」という人間性の回復を説く名和氏と、表現の本質に向き合うアーティストの谷澤という二人の探究者が、同じ地平を見つめていることに深い感銘を受けました。

象徴的だったのは、名和氏がEGAKUを通じて、当初の思考を超えてキャンバスに「予期せぬ陸地」を見出したエピソードです。AIがあらゆる最適解を提示する時代に、効率化や正解を求める現代のビジネスシーンにおいて、名和氏がキャンバスに見出した「陸地」という予期せぬ発見。そのプロセスに宿る「身体知」こそが、氏の提唱する「シン日本流経営」の核心であり、生命力あふれる組織へと進化させる鍵であることを予感させるものでした。
 
既存の枠組みを疑い、自ら「問いを立てる力」を研ぎ澄ませる。その試行錯誤の中にこそ、予測不能な環境下で組織を創造的かつ強靭なものへと変貌させる、真の原動力が潜んでいるのだと感じています。 

(文責:長谷部貴美)